延命院と胴塚

市内にある将門関係史跡を15回シリーズでお知らせします。平将門伝説は、北は東北から西は広島県まで分布し、中でも将門の支配下にあった関東地方に多く残っています。
他にも伝承などを加えると、その多彩さに圧倒されます。
今から1100年前の東国は、坂東と呼ばれる未開拓の地でした。その荒地の開拓に農民たちと取り組んだのが将門であったと伝えられています。将門は新しい時代を予期した馬牧の経営と製鉄による農具の開発などに取り組み、荒地の開拓を容易にしました。そうした進歩性が一族との争いを生み、その争いが国家権力との争いに発展し、豊かな郷土の実現を間近かにして敗れてしまいました。
将門伝説には、その夢の実現を見ずに散った悲劇性と庶民の願望が、今日まで語り継がれています。

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延命院と胴塚

延命院は菅生沼を臨む東側台地にあります。広い境内を多くの桜の木が占めていて、春には見事な彩りを添えます。
将門の胴塚で知られる延命院は、真言宗智山派に属し、神田山如意輪寺延命院といい、また篠越山延命院観音寺ともいいます。本尊は延命地蔵菩薩です。
天保6年(1835)に建てられた「延命院復興記」碑によると、開基は京都東寺の僧宗助で、中興の祖は来正法師とあります。
現存する観音堂は、関宿城主牧野成春公の助力で宝永7年(1710)に建立され、堂内の聖観音立像は伝教大師の作と伝えられています。境内にある不動堂の裏に円墳があり、この塚を将門山、または神田山と称しています。
将門は、天慶3年(940)2月14日の合戦を迎えて、石井の北山に最後の布陣をします。最初は風上に立って優位な戦いでしたが、急に風向きが変わり、正面から突風を受ける立場になったとき、敵の矢を受けて倒れました。その首は藤原秀郷によって京都に送られ、東市にさらされたといわれています。残された将門の遺体をひそかに神田山の延命院境内に葬ったのが、この胴塚と伝えられています。この地は、相馬御厨の神領だったことからあばかれることなく、今におよんでいるといわれています。
その胴塚を抱くように大きなかやの木が立っています。また、胴塚の西側には、昭和50年に東京都大手町の将門首塚から移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられています。

 

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