富士見の馬場
市街の四ツ家から岩井第一小学校に向かって進むと、右側に小さな緑地があり、ここを「富士見の馬場跡」と称しています。
この地を基点に北へ700m、幅22mの直線路があり、道の両側に松並木が続いていたと語り継がれています。
今から1100年前の書物『延喜式』によると、諸国の牛馬牧として39牧の名称が記録され、そのうちの18牧が兵部省管轄の官牧でした。下総国には馬牧4、牛牧1が数えられました。
平将門の領内には大結牧と長洲牧があったことから、将門は官牧の牧司を兼ねていたのではないかといわれています。
『将門記』には、百騎を超える騎馬隊を組織し、合戦の場で効果的に用いている場面が描かれています。
当時は、ほとんどが自然の状態で飼育された野馬でしたので、人が乗り、使役のためには調教する馬場と厩が必要でした。
富士見の馬場は、調教を目的に開設され、やがて将門によって軍馬の調練の場として活用されたことは<野馬追い>行事の継承を通して想像することができます。
鎌倉時代は、猿島地方も戦乱の中に組み込まれました。豪族たちはもちろんのこと、その旗下にあった農民たちも、戦場に出陣するために馬を飼い、そして馬を求める馬市が立ち、その取引の場所となったのが、富士見の馬場であったことも伝えられています。
富士見の馬場(岩井2245-5)